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2016/3/21

12:30頃起床

昼はトーストとヨーグルトのみを食べる

夕方5時頃まで友人は家にいた

蛇にピアス』を読み終わった。個人的には非常に面白かった。読みやすかったし短かったし。

次は『限りなく透明に近いブルー』を読もうとしているが読みづらく感じてしまってとてもつらい。最悪途中で読むのやめてもいいくらいの気持ちで行きたい。

晩飯は白米、味噌汁、冷奴、裂いたゆで鶏と茹でたキャベツにドレッシングかけたやつ、卵とキクラゲの炒め物。炒め物のレシピに醤油大さじ2杯と書いてあって多くね?と思いったがそのままの分量で作った。案の定塩っぱくなったので次回これを作るときは気をつけたい。f:id:ho_raq:20160321214447j:plain


夜の21時頃以下のことを思い出したー

高校一年生の時、「もし、もう一人の自分がいたらどうするか?」という議題でクラスで話すことがあった。僕は「どうもしない。それぞれが別の人格として別々に生活するだけ。」とか何とか考えたような気がしなくもない。このクラス討論の締めとして担任の教師(数学の教師だった)はこのように言っていた。

「そのもう一人の自分というのが遺伝子や身体の構成まで自分と全く同じようにできているというならば、私は、私とそのもう一人の自分とを実験台として、ある実験を行いたい。それぞれを別々の環境で一から生育する。そうすれば環境の違いによってもたらされる人間への影響というものをその他の要素からの影響を排除して比較検討できる。」

僕は「は?」と思った。そんなことして何が得なんだ?と。皆が「1日交代で学校に通って楽する」とか「もう一人の自分を観察することを通して自らを省みる」とか、形は違えど自らを利することを望む意見を提示する中、この人はどうしてそのようにある種の自己犠牲さえも含む愚行に及ぼうというのか。"このような文脈にいてさえ知的探究心に駆られる自身"というものに半自覚的になることで自分に酔っているのではないか?とまで思った。

ここまでがおおよそ思い出したこと。

(付け加えるとすれば、僕も担任の教師に"自身への陶酔"の疑念を抱いておきながら、自分自身も自分に陶酔しているということに気がついていた。むしろ、自分に酔うという状態に痛く自覚的になってしまう思考の癖を僕自身が持ち合わせていたがゆえに、担任教師に対してそのような疑念を抱いたと言える。僕はその時「もう一人の自分がいたらどうする?」という題材が言外のうちに提示する「どのようにそいつを利用し、どのように得をするか?」という問いかけに、いやらしさを感じ、それにどのように抗うか、ということばかりに集中していた。また、それに抗えるように見える答えを導けたとき、その言外の問いかけに反抗し打ち負かしたことを誇りに思った。と同時にそのような陶酔に浸る自分にも気づいていた。)


このことについて思い出して思ったのは

人間、あのくらいの歳になってある程度のことを経験して目標とかモチベーションとかの諸概念が自分の中で希薄になってくると、ただ惰性で「何かを知ること」に身を投じ続けることだけが前向きな行動になるのかもしれないな、などといったことだった。

以上。


明日は本屋に行きたい。

小説と新書を買いたい。

あと醤油と片栗粉を買いに行く。肉も買うべきだろう。洗濯もする。掃除もできたらしよう。